昨晩は銀座三越前に鎮座する三重県のアンテナショップ・三重テラスに伺いました。
すいません…今回、日中の仕事終わって戻って、トンボ帰りで着替えて、伺ったため、
写真、一切、ないんすよ。
熊野古道といいますと、和歌山県を連想されますが、
今回の主題は、三重県の神宮(伊勢神宮)へと連なる熊野古道伊勢路が舞台。
お勉強会の講師は、三石学さんといって、熊野市の文化財専門委員長をされている偉い方。
偉い方といいますのは、もちろんその肩書もさることながら、
熊野古道伊勢路に関して、ご自身がなされてきた、仕事の大きさにあります。
まだ、熊野古道が世界遺産に登録される遥か前(登録は2004年)
1980年当時は、熊野古道の伊勢路はまだ土砂に埋もれ、
誰も顧みる人がいない、荒れ放題の状態だったといいます。
当時まだ、大学を卒業されたばかりの三石さんは、母校の教授から、
「キミ、キミは民俗学やっていたからわかるだろう、この大切さが」
とだけ言われ、半信半疑で、この道の発掘整備に携わることになりました。
しかし、いざ始めてみたものの、使われなくなってから数十年を過ぎた道を、
有志の人力だけで復活させるのは並大抵のことではなく、
一日にどんなに頑張っても2m程度しか整備が進まなかったといいます。
(伊勢路の全長は170km)
この話が感動的なのは、
三石さんやそのお師匠さんの教授も、それに携わっていた誰もが、
別に世界遺産の認定を受けるために、発掘にいそしんでいた訳ではないのですね。
実際、世界遺産に認定されたのは発掘開始から25年後のことで、
当初は世界遺産登録など、全く、夢にも思い寄らなかったとおっしゃっていました。
そして、当初は数人の有志だけの作業であったのですが、
情熱が情熱を呼び、地元の方々も賛同頂けるようになり、
大きな波となっていったそうです。
また、世界遺産認定の前に、ユネスコ・イコモス調査団が訪れた際、
たまたま地元の小学生が遠足で伊勢路の勉強をしにきており、
それを目撃した調査団の方々が等しく、ジモティ(最近、こうは言わないですか?)
にも愛されている様子に感動され、認定への道筋を促進させたとのお話でした。
現在、日本各地の観光名所で、世界遺産登録に向けての動きが盛んですが、
対象地域の中には、
関連事業者のみが盛り上がっていて、
地元住民は冷めた目で遠くから眺めている、
(写真はイメージです)
という図式も、残念ながら見られるようです。
地元から親しまれ、愛されるシンボルというのは、
一朝一夕で出来上がるものではありませんから、
そこは、難しいところです。
その他、お話頂いたのは、千六百年の歴史をもつ伊勢神宮(三重県です!)の式年遷宮のお話。
通常は二十年に一度行われますが、長い歴史のうち、遷宮が行われなかった期間があります。
それは、応仁の乱から戦国時代にかけての百数十年間。
最近は応仁の乱に関する本が売れたり、
大河ドラマも戦国時代だったりと、何か魅力的でさわやかな時代という印象がありますが、
実際は、下克上など日本の歴史からすると非常に異質な価値観に支配されていた時代でして、
様々な影響があり、そのうちの一つにも、年遷宮が行われないという異常事態があったのでした。
(ちなみに、第二次大戦後の貧困真っ只中の昭和24年でさえ、4年後に延期し、
当年にはせめて宇治橋だけでもと、掛け替えが行われたそうです)
三石さんにお話頂いた話は、この遷宮が行われず荒れ放題だった際に、
全国を行脚して募金をし、浄財をつのり、見事宇治橋の架け換えを成し遂げた尼僧、
慶光院清順上人のお話でした。
三重県のお生まれの方なのですね。
臨済宗の尼僧という仏教徒にも関わらず、
誰も顧みなかった神宮の復興に、文字通り命をかけて取り組まれるそのお姿。
日本という国の文化を語る上で欠かせない神仏混淆の真髄を見た思いがしました。
そして、今回一番ビックリしましたのが、
熊野信仰の中心ともいうべき青岸渡寺のご本尊が、
如意輪観音だということを今回初めて知り…
http://www.kumano-sanzan.jp/ より
如意輪観音は、河内長野の観心寺、吉野の如意輪寺など、
南朝の歴史にもとても所縁の深く、南朝ファンにとってはたまらない観音様であります。
しかし実はまだ、ワタクシ、玉置山以南の熊野は足を運んだことがなく…。
これは是非一度、お詣りにいかねばなりますまい。
以上のようなお話を、洒脱な感じで三石さんはお話を進めてくださり、
二時間はあっという間に過ぎていったのでした。
熊野古道での楽しみ方は、様々。
道順も特に定められたものはなく、
気になるスポットを直感的に目指して歩みをすすめいく。
春までには、一度お邪魔したいものです。
三重県の皆様、素敵なセミナーをありがとうございました。
YH
写真、一切、ないんすよ。
熊野古道といいますと、和歌山県を連想されますが、
今回の主題は、三重県の神宮(伊勢神宮)へと連なる熊野古道伊勢路が舞台。
お勉強会の講師は、三石学さんといって、熊野市の文化財専門委員長をされている偉い方。
偉い方といいますのは、もちろんその肩書もさることながら、
熊野古道伊勢路に関して、ご自身がなされてきた、仕事の大きさにあります。
まだ、熊野古道が世界遺産に登録される遥か前(登録は2004年)
1980年当時は、熊野古道の伊勢路はまだ土砂に埋もれ、
誰も顧みる人がいない、荒れ放題の状態だったといいます。
当時まだ、大学を卒業されたばかりの三石さんは、母校の教授から、
「キミ、キミは民俗学やっていたからわかるだろう、この大切さが」
とだけ言われ、半信半疑で、この道の発掘整備に携わることになりました。
しかし、いざ始めてみたものの、使われなくなってから数十年を過ぎた道を、
有志の人力だけで復活させるのは並大抵のことではなく、
一日にどんなに頑張っても2m程度しか整備が進まなかったといいます。
(伊勢路の全長は170km)
この話が感動的なのは、
三石さんやそのお師匠さんの教授も、それに携わっていた誰もが、
別に世界遺産の認定を受けるために、発掘にいそしんでいた訳ではないのですね。
http://www.1000kodo.com/ より
実際、世界遺産に認定されたのは発掘開始から25年後のことで、
当初は世界遺産登録など、全く、夢にも思い寄らなかったとおっしゃっていました。
そして、当初は数人の有志だけの作業であったのですが、
情熱が情熱を呼び、地元の方々も賛同頂けるようになり、
大きな波となっていったそうです。
また、世界遺産認定の前に、ユネスコ・イコモス調査団が訪れた際、
たまたま地元の小学生が遠足で伊勢路の勉強をしにきており、
それを目撃した調査団の方々が等しく、ジモティ(最近、こうは言わないですか?)
にも愛されている様子に感動され、認定への道筋を促進させたとのお話でした。
現在、日本各地の観光名所で、世界遺産登録に向けての動きが盛んですが、
対象地域の中には、
関連事業者のみが盛り上がっていて、
地元住民は冷めた目で遠くから眺めている、
(写真はイメージです)
という図式も、残念ながら見られるようです。
地元から親しまれ、愛されるシンボルというのは、
一朝一夕で出来上がるものではありませんから、
そこは、難しいところです。
その他、お話頂いたのは、千六百年の歴史をもつ伊勢神宮(三重県です!)の式年遷宮のお話。
通常は二十年に一度行われますが、長い歴史のうち、遷宮が行われなかった期間があります。
それは、応仁の乱から戦国時代にかけての百数十年間。
最近は応仁の乱に関する本が売れたり、
大河ドラマも戦国時代だったりと、何か魅力的でさわやかな時代という印象がありますが、
実際は、下克上など日本の歴史からすると非常に異質な価値観に支配されていた時代でして、
様々な影響があり、そのうちの一つにも、年遷宮が行われないという異常事態があったのでした。
(ちなみに、第二次大戦後の貧困真っ只中の昭和24年でさえ、4年後に延期し、
当年にはせめて宇治橋だけでもと、掛け替えが行われたそうです)
三石さんにお話頂いた話は、この遷宮が行われず荒れ放題だった際に、
全国を行脚して募金をし、浄財をつのり、見事宇治橋の架け換えを成し遂げた尼僧、
慶光院清順上人のお話でした。
三重県のお生まれの方なのですね。
臨済宗の尼僧という仏教徒にも関わらず、
誰も顧みなかった神宮の復興に、文字通り命をかけて取り組まれるそのお姿。
日本という国の文化を語る上で欠かせない神仏混淆の真髄を見た思いがしました。
そして、今回一番ビックリしましたのが、
熊野信仰の中心ともいうべき青岸渡寺のご本尊が、
如意輪観音だということを今回初めて知り…
http://www.kumano-sanzan.jp/ より
如意輪観音は、河内長野の観心寺、吉野の如意輪寺など、
南朝の歴史にもとても所縁の深く、南朝ファンにとってはたまらない観音様であります。
しかし実はまだ、ワタクシ、玉置山以南の熊野は足を運んだことがなく…。
これは是非一度、お詣りにいかねばなりますまい。
以上のようなお話を、洒脱な感じで三石さんはお話を進めてくださり、
二時間はあっという間に過ぎていったのでした。
熊野古道での楽しみ方は、様々。
道順も特に定められたものはなく、
気になるスポットを直感的に目指して歩みをすすめいく。
春までには、一度お邪魔したいものです。
三重県の皆様、素敵なセミナーをありがとうございました。
YH
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